昭和54年11月01日 朝の御理解



 御神訓 一つ
 「体の丈夫を願え。」    
 「体を作れ 何事も体がもとなり。」

 何と言うても健康のおかげを頂かなければ、それこそ命あっての物種ですから、健康であるという事は、まぁ最高に幸な事だと思うんです。だから体の丈夫を願えと。神様にお願いをせよと言われる。同時に体を作れと。何事も体が元なりと。やはり食べ物に気を付けたり、また適当な運動をしたりと言う事もございましょう。体の丈夫を願うと言う事は、どうぞ今日も健康でという願いもありましょうけれども、ギリギリのどころいうならその体はどこにつながっておるかというと、心につながるものです。
 健全な心に健全な肉体が宿るのです。ですから心の健康を願うと言う事と、その心の体を作れとこう仰る。これは私共が努力をする事体を作る。いうならば心を作る精進をしなければならん。願うだけはいかん願うならやはりそれを作らして貰う、健全にならして貰う精進をしなければ、ただお願いしておれば良いというのではないのです。体の丈夫を願う。それはもし信心を抜きにするならば、他に色々手立てがございましょうね。
 栄養のバランスを考えたり、適当な運動をしたり、そういう精進も、まいいことでしょう。けども信心を頂いてわからして頂く事は、一切が心につながっておるんだと言う事が分かってくると、結局は心の健全を願わなければならない。また心が健全になる事の為の精進をしなければならないと言う事になります。そこで心の健全を願うという事は、まぁ出来ますけれどもね。すうっと出来るんですけれども。体を作れと仰る。心を作ると言うことは、その作る手立てが必要なんです。
 只じっとしてて心が出来るという事じゃありません。いわゆる心の糧が必要なんです。いわゆる間違いのない教えが必要なんです。その教えに基づいて、私共の心が作られてくるんです。金光教の信心ではどういう事かと言うと、[喜び一つで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん。]と仰せられる。ですから私共の心を作るという事は、もうどんな場合でも、いつでも神様有rzい難うございますと、御礼の言えれるような心を作る、という事なんです。
 だからもうなかなかもってこれは精進に精進、心にかけにかけ続けておかんと、なかなかでけんのです。あらっというまに不平を言うとる。あらっ」というまに不足を言うとるんです。そういう事では、いわゆる心を作る事は出来ません。そして心をたとえて申しますと、特に女の方達がその和服がなんかは、私は洋服の事は、あんまり分かりませんけれど。例えば和服を着る。本当にあの、着付けが上手に着付けておられて、そしてそれを身のこなしも良く、それを着られるとくずれませんよね。
 第一身のこなしが良いと、着物を着付けた人達。それでますきっとこう着付けが良いだけじゃなくてくずれません。それはこなしが良くなるから。だからそこまでいけばいいのです信心もね。私共も信心、心にそれが頂き切れてしもうて、どんな場合であってもくずれない。和服なんか特にそうでしょう。着付けない人が着ると、どんなに良いものであってもおかしいでしょどことはなしに。それは着付け屋さんが、ちゃんと着せて下さってもです、もそれが窮屈で苦しうてこたえん。
 そしてちょっとするとすぐこう乱れる。これは不思議です。私共のこの奉仕着もやっぱそうです。着付けますとね、格好もだんだん良くなるがくずれませんです。着付けない人はすぐくずれるんです。いわばもう身体でなら着るんですね。こなしで着るんです。もう自分が気が付かんなりにスッキリと着て、スッキリと着こなしが出来るように、信心もなったら素晴らしいです。
 昨日は、31日の御礼信話会でしたが、ま皆さんの有難いお話しを、聞かせてもらいましたが、中に久留米の光橋先生が発表しておりました。去年でしたかね、長男の嫁を貰いましたが、その嫁が気が小さいと言うか、ちょっとヒステリ気味というか、もう本当にま先生が見えておるとまおかしいくらいに、まものを言わなかったり、プリプリ腹かいたりするわけです。
 昨日もちょっとした事で出て行くとか、出て行かないとかで、やっぱりしばらく居なくなったり。ま夕方帰って来とったとこう言うのですけども。そういう時に光橋先生が、その頂いておる事は、もう必ず御礼を申し上げる心なんですね。もう本当に、けれどもよう、光橋先生。昨日は竹内先生が司会しとりましたから。例えば、昨日の朝の御理解の研修の時にでしたでしょうか。とにかく合楽では足ろうたおかげと言われる。
 例えばお金はあっても家庭が不和であったら、そりゃちょっとおかしい。お金はあり健康ではあっても、家庭に不和があったり、お金はあって家庭は円満であっても、病人が絶えないと言った様な事では、本当な事じゃない。そこでこれは、まぁだ自分の信心が間違っておるんだと思うて、改めていかんならん。と言った様な話が出ておりましたから、竹内先生がそう言ってました。いつ頂いても光橋先生の場合は、例えば人間関係でいろんな問題がある。
 先生自身はそれを喜びでさっさと受けて行かれるけれども。これは何かが欠げておる証拠だと。だからそこんところを考え直さなきゃいけないでしょう。と言う風に言っておりましたから私が横から申しました。こりゃ正教さん光橋先生の場合は違うごたるばいち。神様がもうどんな場合であっても、コロコロとそれこそどんな場合であっても、コロコロと喜びで受け喜び喜びしか出てこん。
 いうならまぁその純粋な稽古をさせてござる。また神様が求めてござるとじゃろうと私は思うがのと言うてま話した事でした。としか思われんです。あれ程の信心が出来ておるのに、子供に親にまたは嫁にね。人間関係の上に、それで自分としてはそれがおかしい位に思われる。けれどもだから相手の事を度々に祈っておる。ま祈られる自分が有難いと自分で、自分の心に合掌しておる。と言う様なお話ばっかりなんです。だからもういよいよ完璧などんな場合であっても、光橋先生の場合は喜びで受ける。
 いうならば今日の御理解で言うと、体を作れ何事も体が元。その元がいよいよ完璧なものが出来ていっておる過程であると、私は昨日申しました。そこんところが元が本当に出来たらです、素晴らしいです、もう確かに体を作れ、心を作れと言う事はそういう事だと思うのです。その向うにそういう喜びの徳と言うものが、それこそ足ろうたおかげにもなってきた。足ろうたおかげであって、初めて信心も出来んのに足ろうた。というのはちょっとおかしいんですよねやはり。
 世の中には、お金もあり物もありね、健康でもあり足ろうとるです。それでいてとにかく死ぬ程の苦しみを知っておる人が沢山あると言う事を、昨日熊谷さんがお届けしとられました。あそこに熊谷さんの話を聞きに見えるかたがあります。金子さんという方。熊谷さんの話を聞いて助かっていかれる訳ですけれども。昨日も、今朝方こういう不思議なお夢を頂いたと言うて、お尋ねに見えました。とにかく大水が入っておる。自分もその水に足がつかっておる。
 向うの方にはもう沢山な人達が、そのまぁ溺れんばかりにして、押し流されて行かれて、助けを求めておられる。そして熊谷さん助けて下さい。と言うておるお夢であったと言うのです。ここでは水という事はお恵みという。いうならば大水という事は、お恵みの頂き過ぎという事です。財産も頂き過ぎとる。健康も頂き過ぎとる。そういう様々な意味に於て、頂き過ぎる程しのおかげを頂きながらも、アップアップいうて溺れござる人が、世の中にはどのくらい沢山あるやら分からん。
 熊谷さん助けて下さいとこう言うとる。熊谷さんの話を聞いて人が助かる。そりゃ考え方が間違うとりゃせんですか。こう頂かにゃいけんのじゃないですかと聞くと、あっほんにそうでしたと言うて心が安らぐ。皆さんの周囲にもですおかげを頂く。信心はなくてもです。お金にも物にもいろんな物に恵まれ過ぎておって、それこそアップアップ言いよんなさる人が、世の中には沢山あるのです。そういう人たちが救われていく。そういう人達に救いの手を差し伸べて行くような、ひとつ働きをしなければいけません。
 そういう心を起こすという事が、神様の心にわが心が神に向うと言う事になるのです。自分が助かる「金光様」とこう言うのも、わが心が神に向うのでしょうけれどもです。自分の助かりだけではない。そういう難儀な人が助かるという、それこそいうならば助けを求めておられる、その声が聞き取られる様になる時に、その人は私は心耳がね心の耳が開けてきた時だと思うです。久富繁雄さんじゃないけども、畔道を歩かれよるといわば野菜がね、喜んだり悲しんだり痛がったりしておるのが分かるとこう言われる。
 はぁ痛いといいよるからちょっとこう葉を見ると下に、成程虫がついておったと言う様にです。私共世の中にです。本当に助けを求めて難儀を、もうそれこそ恵まれ過ぎて難儀をしておるという人達がある。そういう人達の示現活動にです。助かられる事の為の示現活動に参画さしてもらおうと。心を神様に向けた時に本当の意味に於ての心を神様に向け。いや向けても神様が知らん顔してござるかも知れんけども。こういう向け方ならば神様がいちいち、それこそお聞き届け下さるというふうに思うんです。
 昨日、福岡の間島さんか、間島さんち言いよったかな。と言う当から電話がかかってきた。前加山雄三のお夢を頂いたという方から、もうあの電話が掛かって来た、というのは昼お姉さんにあたる方がみえておって、あのあんたん所の部屋に飾ってあるあの人は、書道の先生か何かのち。私の写真が飾ってあるらしいんです。私はあの写真を見たら思わず合掌してからち、「あらどうして合掌しとるじゃろうか」と思うたが、「どうした人か」とこう申します。
 そりゃあそうでしょう。あの人はあなた、も合楽の生神様ですよと言うて話した。私は「書道の先生か何かじゃろか」と思うたとこう言われるんだそうです。そして合楽の話をさして頂いとりましたら、あのその翌朝お夢を頂いて、その姉を本当に御信心にお導きさして頂こうと。それこそ何に心配もないほどしに、おかげを受けとるけども、いうならば本当の神様を知らない。
 本当に自分が助かって行っておる、この神様を教えてあげようと思うてやすませて頂いたら、お夢の中に『お姉さんと二人で道を歩いておると、そこにいっぱいリンゴがなっておった。しかもそのリンゴが,丁度水蜜桃のようにふっくらとしたリンゴでした。はぁあれをひとつ頂きたいと、思うておるところで目が覚めたんですけれど』と言うのです。昔あんな歌が流行りましたね。リンゴ可愛いやという。しかもそれはあの水蜜桃のように、ふっくらとしておったと。間島さんという人はそういうタイプの方なんです。
 それこそ神様が御覧になってです。「ま、何と可愛らしい事を、言うたり思うたりする氏子であろうか」と心を神様の方が向けてござるという事なんです。あれにも恵まれこれにも恵まれておるけれども、神様を知らない。そういう写真を見て合掌すると言う様な心も持っておる。だからどうでもそのお姉さんをお導きしたいと思うてやすんだら、そんなお夢を頂いたと。神様がそれこそふっくらとしたリンゴのように、水蜜桃のようにふっくらとした、そのリンゴを頂こうとしておる所を頂いた。
 私は神様の目だと思います。しかも本当に神様が目を細めて喜んでおられるような感じのお夢であると思います。ならその方がどういう信心を、まだそれこそ半年余りくらいな信心でしょうか。初めの間はお伺いとかお願いでありましたけれども。時々車に便乗さしてもらう方があると、朝の御祈念に参って見える、ね。そしてお話を頂いていくうちに、ね。御造営の話が出た。こりゃ自分もどうでもおかげを頂きたいと思わせて頂いたら、感動が湧いてきた。
 どういう事か分からない。あくる日朝の御祈念の時には、自分のその時に感じただけの額の御造営費のお供えをさして頂いた。もう帰り家に着くまで感動が止まらなかった。電車の中でも涙が流れてしょうがなかった。この有り難いというものは、いったいどこから来るのだろうかというのである。ね。信心とは結局そういう喜びに浸らして頂けれる事が信心だと言う様に、だんだん分かってきた。先日から電話がかかってまいりました。今日はとても楽しいお夢を頂いたというのです。ね。
 高い山に、俳優の加山雄三という俳優と二人で、その楽しい登山をしておるところであった。頂上に行ったら、頂上には切り干し大根がいっぱい干してあるところであった。どういう事でしょうかと。加山というのは「山を加える」と書いてある。しかも信心は山登りと同じ事と教えられるのだから、一歩一歩その山に登っていく事が、はぁこげな山にどうして登らなんじゃろうかでなくて。若い方達が重いリュックを担いで、そして頂上を目指して。それこそ汗ブルブルになって登っておるのが。
 あぁ苦しいじゃなくて、それこそあぁ楽しい。ように信心もやはり、その山登りが楽しうならなければ、今日の御理解でいう、身についた信心とは言えない。こなしの良くなるという稽古の為に、この山登りの信心が必要である。しかもそういうハンサムな加山雄三と一緒に登っておる、というのだからなお楽しい。信心はもう嬉しう楽しゅうしていくもんだとこう言われる。楽しゅう。そして登りつめたところには、切り干し大根がいっぱいであった。
 大根をそのまま食べたんでは、もうそれでおしまい。そのままほっときゃ腐ってしまうけども、あれを干して切ってそして干し上げると、いつまで置いても悪くならない。それこそあの世にも持っていけ、この世にも残しておけると言う様なお徳を頂く為の信心。それは山登りの信心。しかも楽しゅうそれを信心していく手立て。それにです例えば今日の御理解「体の丈夫を願え、体を作れ何事も体が元なり。」という。これは体の事ですけども体を作る為には、まず体と心がつながっておる事が段々分かってくる。
 健全な心に、健全な肉体も宿るのである事が分かってくる。いや[心ひとつですべてを創る]と言うことも分かってくる。そこで心の丈夫を、いよいよ和賀心にならして下さい。今日もどうぞ、和らぎ喜ぶ心を頂かして下さい、と願わなきゃならない。それが願うただけじゃなく、その体を作らなきゃいけない。作るという事は、自分で精進しなければいけない。こで私共がです。その精進の目当てというものを、ね。合楽示現活動に向けても良かろう。ね。
 又はどういう事があっても、ドッコイと驚きもせ、怖れもせず、いうならそれを、いうなら、喜びで受けていけれる心の姿勢、体勢というものを作っとかなけれ、ならない。作るという事、そういう事だと私は思う、ね。今日は体の丈夫を願う。または体を作れ、と言う事を教えとられる事を、いうならば心と結び付いたものだ。だから体を心の丈夫を、健全を願え。そして心を作れ。そういう手立てを今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。